幸いなこと!
1:悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座に座らない者はさいわいである。
2:このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。
3:このような人は流れのほとりに植えられた木の時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、
そのなすところは皆栄える。
4:悪しき者はそうではない、風の吹き去るもみ殻のようだ。
5:それゆえ、悪しき者はさばきに耐えない。罪人は正しい者の集いに立つことができない。
6:主は正しい者の道を知られる。しかし、悪しき者の道は滅びる。詩編 第1篇 1節から6節
【1:悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座に座らない者はさいわいである。2:このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。】
詩篇第1篇の1節2節の御言葉でございます。ここで「幸いである」ことが教えらえています。この2年近い間。私たちは新型コロナウィルスによる、新たな感染症が広まる中、さまざまな困難に見舞われ、それまでの生活スタイルを変えざるを得ないような状況になりました。ただし、長い歴史を見通してまいりますと、やはり、伝染病や、飢饉、自然災害、戦争等による、困難な時代は多くありました。今もまだ、コロナ以外の伝染病や、内戦、干ばつや環境汚染などで、貧しく苦労の中で生きている人は多くおられます。ただ、現代の私たちは、ある意味幸いにも、それなりに豊かな国に生まれ、発達した科学技術の恩恵を受けて暮らして参りましたから、この時代に、現在の事態になることは予想外であったということでしょう。しかし、どのような時代においても。また環境においても、神様は私たちが「幸い」であることを教えて下さっています。1年のはじめに当たり、この幸いなこと。変わらぬ幸せとはどういうことかを、詩篇第1篇の御言葉に聞いて参りたいと思います。
まず詩篇全体につきまして。紀元前5世紀以降、イスラエルがバビロン捕囚から開放され、神殿再建される時代。当時の祭司であり、律法学者でもあったエズラたちを中心に、聖霊の導きによって、旧約聖書が再編纂されていきました。その中で詩篇も、現在の150篇に編集されていきます。詩篇は全体としては「讃美」そのものです。実際に、礼拝や儀式の様々な場面で、讃美歌として用いられてきました。
私たちが今用いている讃美歌も、ほとんどは聖書の御言葉を基にしていますが、詩篇は全体が神の御言そのものである讃美集ということになります。ですから、私たち人が主を讃美する際の基準になるものと言えます。讃美とは何か、何を、誰を讃美するのか。どのようなことをどのように賛美するのか、何故讃美するか、いつどのような時に、誰が讃美するのかを教えています。
また、膨大な讃美の塊ですから、その中ではただハレルヤ、というだけでなく、様々な状況、この世界で生きている人のあらゆる経験。感情や、思い、嘆き、怒り、願い、そして信仰が歌われます。当然、神学的な深い内容も教えられています。そしてそれらが主をほめたたえる讃美となっているわけです。
詩篇は150篇あって、5巻に分けられています。1~41編が第1巻。42篇~72編が第2巻、73篇~89編が第3巻、90編~106篇が第4巻。107編から150編が第5巻となります。それぞれの巻の終わりの詩篇の最後は、全て「とこしえに主をほめたたえよ、アーメン」という頌栄で終わっていて、その巻の締めくくりを示します。第5巻だけは、146篇以降全部が「ハレルヤ」これは「ハレル・ヤー」です。「ヤー」は「ヤーウェ」の略ですから、ヤーウェ、つまり「主をほめたたえよ」という言葉です、このハレルヤで始まり、ハレルヤで終わる、ハレルヤ詩篇となっています。
そして、五つに分けられた各巻は、それぞれ巻ごとに大きなテーマの塊としてまとめられています。▼第1巻は、「わたし」という一人称で語られる詩編がほとんどです。ですので、これは「個人的な讃美。日々の、私と主なる神様との関係、その讃美が中心です。
第2巻は、今度は「私たち」という複数形で歌われます。主の民の群れ。「共同体の讃美」ということになります。そこではイスラエルという契約の民を土台として、神の国と、神の支配が歌われています。
第3巻は「礼拝における讃美」です。礼拝で聖歌隊が歌うために書かれた、アサフによるものが大半です。そこでの教えの基本は、主なる神の契約と救いがテーマになります。
続いて第4巻は「主の王権の讃美」になります。全世界、天地を統べ、治められるまことの王であられる主。この主がわれらの神となって下さった、私たちを神の民として下さった。全知全能のまことの王、その下に仕える、その王への讃美です。
そして第5巻。第5巻は「讃美とは何か」。ということがテーマになります。讃美がどのようなもので、どこからくるか。讃美は何から生まれるのか、という、讃美そのものを教える詩篇集となっています。第5巻はさらに5つの歌集に分けられ、讃美は感謝から。讃美はみ言葉による。讃美は礼拝において。讃美は神の御業による。神をほめたたえよ。という5つのテーマが歌われています。
ウェストミンススター小教理問答の第1問では、「人の主な目的は何か」ということが問われます。聖書から導き出されたその答えは「神の栄光を表し、永遠に神を喜ぶ」こと、と教えられています。そこに人が生きる本当の幸いがあるということです。そして、小教理問答の最後の107問、主の祈りの結びの言葉は、「国と力と栄とは限りなく汝のものなればなり。アーメン」という、神様を讃える頌栄で締めくくられています。祈りもまた讃美を伴うべきものであって、主なる神様に、救い主の御名によって祈りが捧げられ、聞かれ、かなえられる確信において、アーメンという感謝を告白し、主の讃美が捧げられます。そして、問1の通り、讃美することは永遠であることが教えられています。「限り無く」では全て、どこまでも、無限だという讃美が告白されるわけであります。
この第1篇は、実は第2篇と併せて一対の構造となっています。1篇の第1節の始まりは、「幸いなるかな」という、「アシュレー」というヘブル語で始まっています。口語訳だと、日本語の文法に合わせて、1節の最後に「幸いである」と書かれているので、構造がわかりにくいのですが、原文では「幸いだ」という言葉。感嘆詞のように、「なんと幸いか」「幸いなことよ!」という意味の「アシュレー」で始まります。そして、2篇の最後の12節も「アシュレー」で始まる一文で終わっています。2篇の12節をお読みします【全て主により頼む者は幸いである】というように「幸いであるで」で終わっています。ですから、1篇と2篇は、この「アシュレー」で包まれた、サンドイッチのように挟まれた形だと言うことが分かります。
このヘブル語のアシュレーをギリシャ語に訳すと「マカリオス」という言葉になります。「マカリオス」は、イエス様がマタイの福音書5章の山上の説教で「心の貧しい人達は幸いである。天国は彼らのものだから」「悲しんでいる人たちは、さいわいである。彼等はなぐさめられる」というように、繰り返し語られた「さいわいだ」という言葉になります。英訳だと「Blessed」で、直訳だと祝福されていると言う意味です。英語での説明では「Happy」とされています。Happy。少し軽い感じですが、まさに幸せです。幸いなことを教えています。
まず、詩篇1篇と2篇が「アシュレー=さいわいなことよ」という単語で挟まれていること。そして次に、どちらも表題がありません。他にも表題がない物は若干ありますが、3篇以降ほぼ、比較的詳しい、具体的な表題がついています。先に言いましたように、第1巻は個人の讃美を導いていますから、そのそれぞれの背景が表題で歌われています。ですので、この最初の1篇と2篇に表題が無いのは意図的だと思われます。それは何を意図しているかと言うと、詩篇全体の主題を示すものとして選ばれた、一対の詩篇だと言うことです。詩篇全体の入り口として、全体の表題というか、主題を最初に示した。だから、表題は不要で、諸事情を問わない、という意味形があります。神学的内容もそうですが、形の上でもそれを表していると思います。
詩篇全体は讃美ですが、その内容に大きな見出しをつけると「神様の救いの契約と、やがて来るメシヤの王権」というテーマでまとめられていると言えます。この二つの、詩篇のメインテーマが、最初の1篇と2篇で歌われています。これは聖霊に導かれた、旧約聖書全体の編集テーマでもあります。主のご契約の成就と、真の王の王権の成就として、メシヤ=救い主(イエス・キリスト)を指し示している。それが旧約聖書の構造です。それが凝縮されて詩篇の1篇と2篇に表されています。その最初は「恵の契約」救いの約束です。キーワードが1篇の2節にあります。「主の掟」。掟は「トーラー」ですから、直訳ではご存じの通り「律法」ですね。しかしトーラーは同時にモーセ五書全部を表す言葉でもあります。さらには旧約聖書を端的に表す際にも使われます。特にその「教え」意味する。つまり神の言葉である聖書。「その教えを喜ぶ」、ということが示されるわけです。それがなんと幸いなことか、ということです。
それでは、神の御言葉が教える讃美である詩篇を味わってまいりたいと思います。詩篇の1篇の1節から3節をお読みします。
【1:悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座に座らない者はさいわいである。
2:このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。
3:このような人は流れのほとりに植えられた木の時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、
そのなすところは皆栄える。】
第1篇のテーマ「契約」と申し上げました。短い詩ですが、その分、非常に明確な形、完成された構成となっています。①1節は幸いな人、正しい者がしないこと「消極的行為」を表します。「悪しき者の図り事」。悪しき者は、不敬虔な、自分中心意味します、義の反対語です。自分の欲望に身を任せ、主に背を向ける人の図り事。次に「罪びとの道」。罪人は的外れで、故意の目的をもって罪を犯す、習慣的に罪を犯す人の行く道のことです。そして「あざける者の座」。神を離れ神を畏れない、傲慢な人の姿。これは、堕落以来のすべての人の姿です。神様を知らず、また背を向ける行い、歩み、立ち、座ると表されています。私たちも同じです。これをしないように、そこから離れるところ幸いが備えられています。
②2節は逆に、幸いな人がすること「積極的行為」を教えます。神の教えを喜び、昼も夜も思い巡らせること。別の訳では「口ずさむ」とされています。動物が吠えるように、鳥がさえずるように、自然にあふれ出るように。それは、御霊が御言葉を心に刻んでくださるように、との願いでもあります。
③3節は、その幸いな人の結末。その譬えです。葉を茂らせ実を結ぶ木に譬えられます。更に深いことに、この木は自分で生え育っていないです。「流れ」は水路。灌漑のためにわざわざ引かれた水路で、ですから勝手に生えたのではなくて、植えられた木です。主が備え、主が種を蒔かれ、主が育てて下さっているところの、信仰の繁りを表しています。
4節から6節をお読みします。
【4:悪しき者はそうではない、風の吹き去るもみ殻のようだ。5:それゆえ、悪しき者はさばきに耐えない。罪人は正しい者の集いに立つことができない。6:主は正しい者の道を知られる。しかし、悪しき者の道は滅びる。】
④4節は、逆に悪しき者の行く末を譬えで表しています。これは3節と対照になっています。風が吹き飛ばしてしまうもみ殻のようだ。悪の図り事を歩み、罪人の道に立ち、神をあざける座に座るものは、結局実を実らせない、空っぽの殻だけのような人生送りことになります。
⑤5節は悪しき者の行為。「積極的行為」です。2節と対照です。1節にある幸いな人がしない事をする人は、当然主の裁きの前に立っていられない。正しい者の集いとは、主の恵みの律法、主との契約に生きる人々の中に、いることができなくなります。
⑥6節は悪しき者の「消極的行為」。その道は滅ぼされる、滅びへと導かれると言うことで、1節と対照になっています。3節と4節を境目に、ちょうど半分に折って重ね合わせるような感じです。
ここで中心になるのは、讃美の原因。それは私達が「幸い」を賜っているということです。幸いな人ですね。そしてその幸いはどこからくるかというと、2節。神様の掟。「主なる神様の御心の啓示としての神の言葉」聖書を指します。ですから、私たちの讃美の出発点は、聖書の「恵の契約」に込められた、神様による救いの約束。その中に招かれて入れられていること。そこから始まります。私たちは、神様の恵みの約束に中に、誓いに包まれていると言うことです。その中心にイエス様がいらっしゃる。神と私たちの唯一の仲保者。真の神にして真の人。天よりおいでになって、私たちを救って下さいました。しかし、その入れ物は「恵の契約」です。それがここで讃美されています。
人生とは、その幸い、祝福とは何か。私達人間が、神様の形に造られた、人間の本来の目的を果たすこと。それが本当の幸いであり、祝福です。トーラーの御言葉によって備えられた道です。私たちは神様に似せられて造られている。それに沿う道が恵みの契約であります。 「主の掟」を新改訳は「主の教え」と訳しています。「幸いな人」は、主の教えを喜ぶ人。恵みの契約。つまり救いの契約の中に入れられて、その感謝の喜びを与えられている人、ということになります。それが讃美されています。ここが1篇の中心です。幸いな人はその教え=御言を昼も夜も思い巡らせる。いつも口ずさんでいます。
ウェストミンスター小教理の1~3問で、人生の目的と聖書が教えられています。ギュッとまとめると、神様の形に造られた、人の歩む道は、神の御言葉に従って、信じることと愛することだ、と答えています。それは、まさに恵みの契約の祝福の道であり、それが讃美の始まりとなるわけです。
1節は「このようでない者は幸い」という消極的な表現です。悪、罪、嘲りの道に立たない。なぜなら彼等は主の教え、恵みの契約の祝福の中に、自分の喜びと楽しみがある者とされたからです。それなしには歩んでいないからです。常にその御教え、御言を思うことが喜びとなっている。これは、6節にあります、「主に知られている」という幸いです。「知る」は単に知識の知るではなく、深い交わり、本質的な理解と愛。配慮を意味します。主が知って下さって、救いの約束を下さって、それを私たちが知らされて、その豊かな恵みに生かされている。主に知られる人生の豊かさが3節。時が来れば実を結び皆栄える。この幸いに讃美が始まります。