月報 2022年6月 「キリストの昇天」(1)
それからイエスは、弟子たちをベタニヤの近くまで連れて行き、手を挙げて彼らを祝福された。祝福しておられるうちに、彼らを離れて、天にあげられた。ルカによる福音書 24章 50節から51節
イエス・キリストの高挙については「復活、昇天、父の右の座に着いておられること、世を裁くための再臨」の四つの点にある、と教えられました。前回「復活」について見て参りましたので、今回は2番目「キリストの昇天」について、教えられたいと思います。標記聖句は、イエス様の昇天を描写した証言です。この「昇天」については大教理問答53問で教えられます。問いは「キリストは彼の昇天において、どのようにして高く挙げられましたか?」というものです。これに対して、聖書から導き出された答えは次のようになります。
「キリストはかれの昇天において、次のようにして高く挙げられました——すなわち、かれは、その復活後にかれの使徒たちにしばしば現れて、かれらに神の国にかかわることについて語り、また、かれらにすべての国民に福音を宣べ伝えるようにとの命令を与えつつ、かれらと交わったのち、彼の復活後四十日たって、[第1に]そこで人々のために賜物を受けるため、また[第2に]わたしたちの思いをそこへと引き上げるため、更に、[第3に]御自身が今おられ、また世の終わりに彼が再臨される時まで引き続きおられるところに、わたしたちのために場所を用意するため、に、わたしたちの本性(ほんせい)において、わたしたちの頭として、敵に勝利して、目に見えるかたちで、いと高き天に昇られました。」
これが、昇天におけるキリストの高挙。栄光の御姿ということです。昇天という事実も、やはり「わたしたちのために」という目的をもってなされた御業であり、憐れみ深い神の御心だということが教えられています。前半に書かれたことは、復活のあと昇天までの御姿です。十字架での死後、三日目の復活においてイエス様が示されたのは、ご自身が神の子であること。神の義を満たされたこと。死そのものと死の力を持つもの(サタン)に勝利したこと。生ける者と死ねる者の主であること。つまり地上の世界と御国、肉においても霊においても、全てのご主権を持たれた、まことの王であることでした。そして復活の後、昇天されるまでの40日の間にイエス様がなされたことは、神の国について語り、交わり、世界中への宣教を命じ、同時に、世の終わりまで、いつも私たちと共にいて下さる、というお約束でした。それは、福音伝道が三位一体の主なる神様の御業であることの宣言であり、その神の御業に召された者への大いなる励ましでした。そして、皆が見ている前で天に昇られます。53問回答の最後に「目に見える形で」と表現されています。私たちと変わらない、人間の体を持って天に昇られたのです。
それでは、イエス・キリストのご昇天は、どのような目的と意味を持つのでしょうか。第一に「わたしたちのために賜物を受けるため。」とされています。引証聖句エペソの4章10節「降りてこられた者自身は、同時に、あらゆるものに満ちるために、もろもろの天の上にまで上られたかたなのである。」となっています。ここで「満ちるため」と翻訳されているのは「満たすため」という意味でもあります。しかも、完了形ではなく、進行形です。今もなお、満たし続けておられる、ということです。この世の被造世界の法則、制限を超えて、あるいは、それらを自由に用いて、超自然的な力をもって、天から恵みと賜物を与えて続けて下さっています。その賜物は、使徒、預言者、伝道者、牧師・教師といわれる(エペソ4章11-12)、教会における様々な働きの賜物を指すと言われます。「聖徒たちを整えて奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせ」る(エペソ4章12)ための賜物です。ひとりひとりの個性や賜物は、主が天から授けられたものであり、伝道が主の御業であることの証しでもあるのです。主の豊かな恵みに感謝して、御名を讃美しましょう。これに続く、第二点目以降の目的については、次回、見てまいります。