神様が立てた契約
(15節) 真実は欠けてなく、悪を離れる者はかすめ奪われる。
主はこれを見て、公平がなかったことを喜ばれなかった。
(16節) 主は人のないのを見られ、仲に立つ者のないのをあやしまれた。それゆえ、ご自分のかいなをもって、勝利を得、その義をもって、おのれをささえられた。
(17節) 主は義を胸当としてまとい、救のかぶとをその頭にいただき、報復の衣をまとって着物とし、熱心を外套として身を包まれた。
(18節) 主は彼らの行いにしたがって報いをなし、あだにむかって怒り、敵にむかって報いをなし、海沿いの国々にむかって報いをされる。
(19節) こうして、人々は西の方から主の名を恐れ、日の出る方からその栄光を恐れる。主は、せき止めた川を、そのいぶきで押し流すように、こられるからである。
(20節) 主は言われる、「主は、あがなう者としてシオンにきたり、ヤコブのうちの、とがを離れる者に至る」と。
(21節) 主は言われる、「わたしが彼らと立てる契約はこれである。あなたの上にあるわが霊、あなたの口においたわが言葉は、今から後とこしえに、あなたの口から、あなたの子らの口から、あなたの子らの子の口から離れることはない」と。イザヤ書 59章 15節から21節
「 主は言われる、「わたしが彼らと立てる契約はこれである。あなたの上にあるわが霊、あなたの口においたわが言葉は、今から後とこしえに、あなたの口から、あなたの子らの口から、あなたの子らの子の口から離れることはない」と。」
イザヤ書59章21節の、み言葉でございます。主(しゅ)なる神様が、あなた達と契約を立てる、と宣言して下さいました。この契約によって、神の御霊と、み言葉は、とこしえに私たちの上から、また口から離れることはないと、約束して下さったのであります。今朝、神様が私たちと交わして下さった、この契約について、み言葉に聞いてまいりたいと思います。
神の言葉である聖書は、旧約聖書と新約聖書からなります。旧約・新約は、ご存じの通り、旧の契約、新しい契約を表す「約」が使われています。神様が人の間で立てられた、契約の書、という意味です。それでは、新約聖書が書かれる前の、旧約聖書時代は、ずっと古い契約しかなかったのか。また、イエス・キリストが来られて、新しい契約になったから、古い契約は消えて無くなってしまったのか、というと、決してそうではありません。
新約は、旧約の土台の上に立てられています。人が果たすことができなかった最初の契約。それは、主(しゅ)なる神様への完全な従順を条件に、永遠の命に導こうとされた、アダムとの契約になります。創世記2章16節、17節(旧約2頁)。
「主(しゅ)なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬ」
神への、まったき従順という、行いを条件とされたこの契約は、「業の契約」「行いの契約」とも呼ばれていますが、アダムとエバはこれを破って、堕落してしまいました。もともと、この契約は、人を罪や死に追いやるものではなく、命へと導くための神の愛の契約でした。禁止事項は、「善悪の木の実を取って食べる」という、ただ一つだけで、神との交わりの内におかれていたアダムたちには、容易に果たすことができる内容であったということであります。この「業の契約」違反によって、人類は堕落し、神との親しい交わりを失い、死を免れない、死の支配のもとに置かれてしまいました。
しかし、元々、神様はご自身の似姿としてお造りになった人を、特別に愛しておられました。そこで、契約を犯した人を、その場で滅ぼすことなく、エデンの園から追放されます。園からの追放は、人の霊的な死を意味しますが、同時に神様は、この契約違反を償い、人を罪と死から救い出す、救い主を遣わされることを決意して下さっていました。それが、創世記3章15節に記された、サタンである蛇に告げられた言葉。
「わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕く」
という、み言葉でした。
神様は、人が罪を犯して、神様から身を隠し、神様から距離をとり、その間に置いてしまった「恨み」。「敵意」という意味ですが、それを神様ご自身が、人と、サタンの間に置き直して下さいました。人は、サタンのものではなく、究極的には神様のものだ、と宣言して下さったのです。そして、さらに女のすえ。人の子孫の中に、サタンを完全に打ち砕き、人を呪いの死から開放する、救い主を遣わすという約束でもあります。そこで、この15節16節が「原福音」呼ばれることは、ご存知かと思います。
実際この後、神様が交わされた契約。ノアとの契約は、「もう滅ぼさない」というお約束でしたし、アブラハム、モーセ、ダビデ達との契約も、その先に、「原福音」で約束された救い主を遣わして下さるための、舞台を整える役割を果たしています。ですから、最初の、業の契約をアダムが破ってしまって以降。堕落した後に、神が交わされた約束、契約は全て、救いのための恵みの契約ということになります。
そして、それは段階的に、歴史の中に表わされていきました。エデンという、神様との交わりの内にあった、山の頂上から転がり落ちて、自力では登ることができない山腹に、頂上に向かって、3合目、5合目と徐々に道が開かれていくように、神様は頂上を指し示してこられました。そして最後に、イエス様がお一人で山を登り切り、頂上までたどり着く、直行便のロープウェイを1本通して下さったようなものです。これが、天の御国、永遠の命へと私たちを運ぶ、唯一の道であり、乗り物ですから、もうこれに乗るしかない、ということになります。
イエス・キリストが、神様が求められた業の契約の条件。完全な従順を、人として果たし、成就して下さった。条件を満たして下さったこと。その方が、最初の契約違反の罪を全て背負って、償って下さいました。全く罪のない方が飢え、苦しみ、蔑まれ、迫害され、十字架で呪いの死を受け入れ、黄泉にまで下るという、贖い(あがない)によって、御自身の民であり、体である私たちを救いあげて下さいました。
そして、復活し、昇天されて、天国までの私たちの道を明らかに示して下さいました。私たちは、幸いにも、このキリストに繋げられることで、神様によって御国が保証されています。神様への完全な従順を果たせない私たちは、既に成し遂げて下さったキリストを信じることで、キリストに結びつけられて、永遠の命に至るという、確実で迷いようが無い、新たな道が備えられたわけであります。最初の契約の成就と償い。それを神ご自身がして下さるという、御約束の実現。これが、私たちが遣わされている、新約の時代であります。
そして、本日のみ言葉。救い主、神の御子イエス・キリストが、私たちのもとに来てくださる、約700年前に書かれた、イザヤ書のみ言葉でございます。イエス様によって実現した、神様の御約束が、既に、明らかに教えられているところになります。15節、16節。
「真実は欠けてなく、悪を離れる者はかすめ奪われる。主はこれを見て、公平がなかったことを喜ばれなかった。 主は人のないのを見られ、仲に立つ者のないのをあやしまれた。それゆえ、ご自分のかいなをもって、勝利を得、その義をもって、おのれをささえられた。」
イザヤ書の57章から59章の15節前半までは、イザヤがシオンの民の堕落と不信仰を指摘する言葉になっています。シオンはエルサレムの古い呼び名ですから、神の民イスラエルということになります。彼らが、いかに主(しゅ)なる神様からはなれ、不信仰な状態にあったかを指摘し、嘆き、戒めています。15節「真実は欠けてなく、悪を離れるものはかすめ奪われる」。真理は失われ、悪から離れた、善良な人々が逆に虐げられるような状況、それが神の民として召されたイスラエルの姿だったということです。
そこで、16節から、主が、主体となって描かれていきます。ご自身の民の不信仰なさま。公正が無くなり、かたくなになった姿を見られた主は、心を痛められます。「人がいない」。不信仰に立ち向かって、声を上げ対抗するような人が、御心にかなう人が見当たらに事。仲に立つ者、この罪人たちのために、神様に執り成す者。仲を保つ仲保者のいないことを、確認されました。「あやしまれた」というのは、驚かれた、という意味で、強調表現です。
罪人の中には、神様との間をとりなす人が存在しない。それで、どうされたか。16節「ご自分のかいなをもって、勝利を得、その義をもって、おのれを支えられた。」。神様ご自身が、その御手を伸ばして下さいました。神ご自身が、仲に立つものとなって下さった、ということであります。神様の義によってご自身を支えられる、ということは、神様の求められる、完全な義。正しさを満たすためには、それを持たれる神様が、人として、その義を発揮して下さるほかはない、という事実を明らかにされているのであります。
このことは、このイザヤ書が書かれる、更に1000年以上前。すでにヨブが悟っていました。ヨブは、サタンの試みによって、悲惨な目に遭い、苦しみの中で、必死に神様と向き合い、友人達との議論を通して、御霊によって導かれました。ヨブ記の16章で、「今でも私の証人は天にある」と言い、17章で主に向かって「どうか、あなた自ら保証となられますように。ほかにだれがわたしのために保証となってくれるであろうか」と語りかけています。
ヨブが心から待ち望んでいた、私たちの義の保証人。神様との間を取り持ってくださるのは、神様ご自身である、ということを、イザヤ書では、神様がご自分の口から約束して下さったのであります。20節で、更にはっきりと明言されます。
「主は言われる、「主は、あがなう者としてシオンにきたり、ヤコブのうちの、とがを離れる者に至る」と。」
主が、来てくださる、と仰いました。主に対する人の罪をあがなって下さるのは、誰あろう、主である。主が、咎を離れる者、背きから離れ主に立ち帰る者の下に来てくださる、という主の言葉。これが、主が立てて下さった契約でありました。
モーセに交わされた契約、与えられた恵みの律法の中で明らかにされたことは、罪はあがなわれることが必要である、という真理でした。人間社会でも、謝罪と賠償が無ければ和解に至らないということは、神様が定められた、この法的関係が根底にあると言えます。
この贖い主(あがないぬし)として、神が来てくださるという契約を、主が立てて下さったわけであります。そして、真実なる主の、ご契約束の通り、この700年後に、神の御子、イエス・キリストが、地上に、人となって来てくださいました。神と人との、唯一の仲保者として、造り主であり、天地の主権を持ったお方が、私たちを永遠の命へ導くため、そのため地上での、また黄泉での苦しみを味わうために、来てくださいました。
世界の歴史上、ただ一度きりの出来事。そして最終・究極の救い主のご降臨を感謝し、お祝いするのがクリスマスです。待降節を迎えておりますが、あらためて、永遠からの神様による救いのご計画と、そのお約束の実現を振り返りたいと思います。
それでは、もう少し、続くみ言葉に聞いて参りましょう。17節から19節。
「主は義を胸当としてまとい、救のかぶとをその頭にいただき、報復の衣をまとって着物とし、熱心を外套として身を包まれた。
主は彼らの行いにしたがって報いをなし、あだにむかって怒り、敵にむかって報いをなし、海沿いの国々にむかって報いをされる。
こうして、人々は西の方から主の名を恐れ、日の出る方からその栄光を恐れる。主は、せき止めた川を、そのいぶきで押し流すように、こられるからである。」
仲保者、贖う者となられる、主のお姿が預言されています。贖い主は、完全な義なるお方であります。全く罪のないお方。その方は、救いを掲げて、主の民を救うためにおいでになります。また、贖い主は、報いるお方です。悪しき者への裁き主です。敵を討ち、主に従う人々をお守りになる、まことの王として来られます。そして、この救い主は、御父より与えられた、その務めに対し、何より熱心なお方だと教えられます。「熱心」は「妬む」とも翻訳される言葉です。ですから、神様が妬む、と言われるのは、それほどに熱心に、私たちを愛して下さっている、ということを意味しているわけです。
そして、イエス様のご降臨によってこのお約束は実現し、贖い主、救い主イエス・キリストが再びおいでになる時、その御業が、世界に完成するのであります。その契約が、イエス様誕生の700年前に、神様によって立てられていたことが、み言葉によって明かされています。旧約、新約を通し、一貫して示されているのは、私達への神の愛であり、それが全てイエス様のご存在と、み業とに表されたのであります。私たちは、地上でのあらゆる困難の中で、弱さを覚えますが、み言葉に聞き、イエス・キリストを仰ぎ見ることで、誰も妨げることのできない神様の愛が、熱心に、私たちに注がれていることを覚えることができるのであります。
「 主は言われる、「主は、あがなう者としてシオンにきたり、ヤコブのうちの、とがを離れる者に至る」と。
主は言われる、「わたしが彼らと立てる契約はこれである。あなたの上にあるわが霊、あなたの口においたわが言葉は、今から後とこしえに、あなたの口から、あなたの子らの口から、あなたの子らの子の口から離れることはない」と。」
お祈り致します。
(補足)
最後に少し、19節について。ここは、主の御栄光が、世界にあまねく光り輝くことをあらわしています。西から、日の上る方。東までということですが、キリスト教会が広がって行く中で、やがて西方と東方に分裂してしまいます。今で言う、カトリックとオーソドックス(正教会)です。ただ、分裂する前から、西と東では、教理の発展に、それぞれの個性が見られました。特徴的なのは、西方では、三位一体の神の「三」が強調される傾向だったのに対し、東方では逆に、唯一の神という意味で「一」が中心的になります。19節で、西では「主の御名」、東では「主の栄光」を恐れる、と書かれていることを考えて見ますと、先のような教会史上のできごとにも、言及されているのかも知れません。