主の選びの器(2)

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主の選びの器(2)

9 そこでペリシテびとは上ってきて、ユダに陣を取り、レヒを攻めたので、10 ユダの人々は言った、「あなたがたはどうしてわれわれのところに攻めのぼってきたのですか」。彼らは言った、「われわれはサムソンを縛り、彼がわれわれにしたように、彼にするために上ってきたのです」。
11 そこでユダの人々三千人がエタムの岩の裂け目に下って行って、サムソンに言った、「ペリシテびとはわれわれの支配者であることをあなたは知らないのですか。あなたはどうしてわれわれにこんな事をしたのですか」。サムソンは彼らに言った、「彼らがわたしにしたように、わたしは彼らにしたのです」。12 彼らはまたサムソンに言った、「われわれはあなたを縛って、ペリシテびとの手にわたすために下ってきたのです」。サムソンは彼らに言った、「あなたがた自身はわたしを撃たないということを誓いなさい」。13 彼らはサムソンに言った、「いや、われわれはただ、あなたを縛って、ペリシテびとの手にわたすだけです。決してあなたを殺しません」。彼らは二本の新しい綱をもって彼を縛って、岩からひきあげた。

 14 サムソンがレヒにきたとき、ペリシテびとは声をあげて、彼に近づいた。その時、主の霊が激しく彼に臨んだので、彼の腕にかかっていた綱は火に焼けた亜麻のようになって、そのなわめが手から解けて落ちた。15 彼はろばの新しいあご骨一つを見つけたので、手を伸べて取り、それをもって一千人を打ち殺した。16 そしてサムソンは言った、
 「ろばのあご骨をもって山また山を築き、ろばのあご骨をもって一千人を打ち殺した」。士師記 15章 9節から16節

「ペリシテびとはわれわれの支配者であることをあなたは知らないのですか」(士師記15章11節)
 今日もみ言葉に聴いて参りましよう。
 前回から士師記のみ言葉に聴いております。士師記は一言で云うと、イスラエルの民の堕落の物語であります。ヨシュアの指導のもと、カナンの地に入っていったイスラエルの民は、ヨシュアの死後、カナンの民との戦いを続けようとはせず、先住民と共に住むようになったのです。異教の民との暮らしの中で、イスラエルの民は主なる神様を捨て、異教の神々にひざまずくようになりました。そのようなイスラエルの民の裏切り、不信仰に対して、主なる神様は、近隣の敵国がイスラエルを苦しめることを許されます。苦しみの中でイスラエルが主に呼ばわると、主は憐れみをもって(「さばきづかさ」として)「士師」を立てて敵を打ち破り、イスラエルは救われます。士師が生きている時は信仰を保つイスラエルですが、士師が死ぬと、また不信行に陥っていく。すると敵が興されるという、不信仰→敵の勃興→救済の堂々巡りの中で、イスラエルの民がどんどん堕落していく物語です。
 前回もお読みしましたが、このところをもう一度み言葉に聴きましょう。2章11~12節。
【11イスラエルの人々は主の前に悪を行い、もろもろのバアルに仕え、12かつてエジプトの地から彼らを導き出された先祖たちの神、主を捨てて、ほかの神々すなわち周囲にある国民の神々に従い、それにひざまずいて、主の怒りをひき起した。】
「ヨシュアが死んだときに残しておいた国民」を、イスラエルは滅ぼさなくてはなりませんでした。それが主のご命令でした。しかし、イスラエルは主を裏切り、自分勝手な判断で生きていくことを選んだのであります。そのような時代、民の不信仰によってイスラエルが40年の間ペリシテ人の手に渡された時代に、サムソンは生まれました。彼は母の胎内にあるときから主によってナジル人として召され、主に仕えるものでありました。そのサムソンの為したことですが、14章では、ペリシテ人の娘を見初め、婚礼の席での謎かけに端を発して、町の者30人を殺したとあります。

 そこで今日のみ言葉の箇所ですが、サムソンの所行に怒ったペリシテ人が、攻めて来たので、ユダの人々が理由を聞いたところ、サムソンを捕らえにきたと言います。そこでユダの人々3000人がサムソンのところに来て言ったのが、冒頭に挙げた言葉です。
【ぺリシテびとはわれわれの支配者であることをあなたは知らないのですか】。イスラエルの民であるユダの人々が、この言葉を口にしたというのが、いかに倒錯した発想であるかがお分かりと思います。彼らはペリシテ人の支配に甘んじていました。ペリシテ人に支配されている状態に満足しており、打ち破ろうという思いは無かったのです。そこへ自分たちとは違う、ダン族のサムソンがやってきて暴れた。それ故に自分たちは大いに迷感を被ったということなのであります。
 サムソンは、ユダの人々が【あなたを縛って、ペリシテ人の手にわたすだけ】(15章12節)だと言ったので、おとなしく従いました。サムソンがレヒに連れてこられた時、ペリシテ人が声を上げて近づいてきましたが、15章14b~15節【14・・その時、主の霊が激しく彼に臨んだので、彼の腕にかかっていた綱は火に焼けた亜麻のようになって、そのなわめが手から解けて落ちた。15彼はろばの新しいあご骨一つを見つけたので、手を伸べて取り、それをもって一千人を打ち殺した。】というように、主の霊が激しくサムソンに臨んで縄が解け落ち、サムソンは1人のペリシテ人を打ち殺しました。
 さて、サムソンの為したことを見ると、彼は思いのままにペリシテ人の女を求め、それに端を発して、様々な経動を起こし、畑を焼き、ペリシテ人を打ち殺しました。サムソンの手柄として語られるのは、殺したことばかりです。今日的な私たちの感覚からすると、前回の説教でも申しましたが、彼は「ならず者」にしか見えません。ナジル人でありながら、獅子の死骸に湧いた蜂蜜を食べたり、異郷の女を娶ったり、したい放題です。しかし、【主は彼を恵まれた】( 13章24節) とあります。またサムソンがペリシテ人の娘を見初めたことに就いても、(14章4節)このことが「主から出たこと」だと、み言葉は示しています。サムソンは心のままに異郷の女を見初めたのですが、そのことを用いて、ペリシテ人との戦いの端緒を開くことは、主のご計画でありました。
 そうしてこのレヒでの戦いも、主のみ力によって縄目が解かれ、サムソンは1000人を打ち殺したのです。戦いの後15章18~19節、
【18時に彼はひどくかわきを覚えたので、主に呼ばわって言った、「あなたはしもべの手をもって、この大きな救を施されたのに、わたしは今、かわいて死に、割礼をうけないものの手に陥ろうとしています」。19そこで神はレヒにあるくぼんだ所を裂かれたので、そこから水が流れ出た。サムソンがそれを飲むと彼の霊はもとにかえって元気づいた。それでその名を「呼ばわった者の泉」と呼んだ。これは今日までレヒにある。】
彼がのどの渇きを訴えると、主は泉を造り、水を与えます。サムソンは主の庇護のもとに戦い、ペリシテ人を打ったのです。

 モーセの死後、後継者ヨシュアに与えられた主のご命令は、滅ぼし尽くせ。これがイスラエルに与えられた使命でありました。戦えということでありました。申命記の7章1~5節(旧約256頁)を見てみましよう。【あなたの神、主がかれらをあなたに渡して、これを撃たせられるときは、あなたは彼らを全く減ぼさなければならない】と、厳しい命令がくだされています。
 このところ土井先生のメッセージにも出てくる聖絶(ヘーレム、ハーラム)です。これは新旧訳両聖書に、ただ一度起きたことであります。彼らを滅ぼしつくして、決して交わってはならないということです。さらにその戦いは、主ご自身の戦いでありました。主のみ心に従って進むとき、戦いは勝利しました。しかし主に背く時戦いは敗北です。(7章アカンの着服)イスラエルは、み心に従って戦い続け、敵を滅ぼしつくすとの命令の中にありました。
カナンの住民達の「罪が満ちて、裁きの時が来ていた」のです。聖絶が命じられておりました。戦いは聖戦であります。すなわち戦われるのは主ご自身。主がご自身の民イスラエルのために戦われるのです。そして主がご自分の民に求められたのは、信仰による服従です。異教徒と交わってはならない、異教に染まり偶像礼拝に陥ってはならない。しかし民は背きました。カナンの地に入ったイスラエルの民は、聖絶の命令に背き、安易に流れて先住民と妥協し、生活を共にし、偶像礼拝に陥って、今やペリシテ人に支配される境遇に安んじているのです。

 サムソンは、そのようなときに立てられた戦いの器です。主はペリシテ人の圧政からイスラエルの民を解放すると共に、もう一度主の民としての使命を思い起こさせようとなさったのです。
 サムソンは奔放な人でした。その倫理観も決して褒められたものではありません。しかし主が立てられたナジル人であり、主に恵まれた人であり、彼自身、主を慕い大胆に主に呼ばわる人でありました。ヘブル人への手紙11 章32節(新約356頁)でも、サムソンは信仰に生きた人に数えられています。主はサムソンを立てて、ペリシテ人との戦いの端緒を開かれました。イスラエルの人々は、それによってペリシテ人の支配に甘んじ、偶像礼拝に陥りながら得たかりそめの平安を破られ、主のみ心に従って戦うという使命を、再度示されたのであります。
戦え。敵を滅ぼし尽くせ。これがイスラエルに与えられた使命でありました。戦う、殺す、滅ぼすという言葉の過激さに、私たちはともすれば尻込みしてしまいます。しかしこの新旧両訳聖書に一度だけ出てくるこの時期、地上に初めて主なる神の民の国が立ち上がる時、それは必要なことでした。偶像礼拝の民と交わるな、彼らの文化に染まるな、主の民として聖くあれ。それがイスラエルに対して主なる神様が求められたことでありました。

 では、この旧訳の物語が今日の私たちに教えるのはどのようなことでしょうか。それは、やはり、戦え。敵を滅ぼし尽くせということであります。もちろん、ここで言う敵とは、特定の民族や特定の人々のことではありません。しかし、私たちひとり一人が主の民であり、天に国籍をいただきながら今地上の生活をするにおいて、主なる神様の求めは、偶像礼拝に染まるな、異教徒の文化に迎合するな、主の民として聖くあれということであります。
 以前、大崎先生が言われていたことを思い出します。《「あなたはクリスチャンにしては話しが分かる」、「クリスチャンにしては物わかりが良い」と言われたら、それは堕落しているということや。
み言葉に忠実であったら、世の中とぶつからないわけが無い。世の人に褒められて喜んどったらいかん。》確かにそうです。ただ神様のみを崇め、み言葉に忠実であろうとしたら、世の中の価値観とは相容れません。
 
 み言葉は言います。
第Iテサロニケ4章3~6節(新約321頁)
【3神のみこころは、あなたがたが清くなることである。すなわち、不品行を慎み、4各自、気をつけて自分のからだを清く尊く保ち、5神を知らない異邦人のように情欲をほしいままにせず、6また、このようなことで兄弟を踏みつけたり、だましたりしてはならない。前にもあなたがたにきびしく警告しておいたように、主はこれらすべてのことについて、報いをなさるからである。】
第Iペテロ1章15~16節(新約366頁)
【15むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。16聖書に、「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」と書いてあるからである。】

 私たちは世にあって主に召され、主の民とされた者であります。それは救いに入れられたと同時に、使命に召されたのであります。み心に従いみ言葉に生きる、そのため時として戦うことが必要なのです。
誠意を尽くし知恵を尽くして世と戦い、主の民としての純潔を保つ、それがこの時代に救いに召された私達の使命であります。主にお従いしますという信仰を持って進むとき、主は必ずみ手をもって導いてくださいます。

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キリストの霊の宣教

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