信仰によって生きる
4 民はホル山から進み、紅海の道をとおって、エドムの地を回ろうとしたが、民はその道に堪えがたくなった。
5 民は神とモーセとにむかい、つぶやいて言った、「あなたがたはなぜわたしたちをエジプトから導き上って、荒野で死なせようとするのですか。ここには食物もなく、水もありません。わたしたちはこの粗悪な食物はいやになりました」。
6 そこで主は、火のへびを民のうちに送られた。へびは民をかんだので、イスラエルの民のうち、多くのものが死んだ。
7 民はモーセのもとに行って言った、「わたしたちは主にむかい、またあなたにむかい、つぶやいて罪を犯しました。どうぞへびをわたしたちから取り去られるように主に祈ってください」。モーセは民のために祈った。
8 そこで主はモーセに言われた、「火のへびを造って、それをさおの上に掛けなさい。すべてのかまれた者が仰いで、それを見るならば生きるであろう」。
9 モーセは青銅で一つのへびを造り、それをさおの上に掛けて置いた。すべてへびにかまれた者はその青銅のへびを仰いで見て生きた。民数記 21章 4節から9節
【9 モーセは青銅で一つのへびを造り、それをさおの上に掛けて置いた。すべてへびにかまれた者はその青銅のへびを仰いで見て生きた。】
民数記21章9節の御言でございます。民数記の中でも、印象的な記事として有名な「青銅のヘビ」の出来事でございます。この出来事、とくにモーセが造った青銅のヘビが有名なのは、このヘビがイエス・キリストを示している、予型であったからであります。それも、イエス様ご自身がそのことを解き明かされたから、と言えます。ヨハネによる福音書3章の14節から15節で次のように言われています。
【14そして、ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない。15それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」。】
民数記で、火のヘビと書かれています、これは不信仰に対する主の刑罰でありました。毒蛇にかまれた者が、主が憐れみにより、モーセに命じて造らせた青銅のヘビを見上げることで、癒されて命を救われたように、十字架につけられたキリスト。そして天に挙げられたキリストを仰ぎ見、「信じる」ことによって、永遠の命を得る、ということ。命はイエス様を救い主キリストと信じる信仰によって約束されるという、聖書の解き明かしであり、福音の宣言でもありました。
このことは、新約時代に生きる私たちにとっては、神ご自身であられるイエス様によって、確定された約束となりましたが、あらためて民数記を見てまいりますと、その時代においても、青銅のヘビの出来事は、イスラエルの民に、救いと命はただ信仰による、ということが示された、重要な主なる神による啓示でありました。
この出来事がおきるまでの、エジプトを脱出したイスラエルの民の状況を振り返ってみたいと思います。エジプトで奴隷とされていたイスラエルの人々を、主が数々の奇跡の御業によって、救い出されました。奴隷として虐げられていた、弱い民族が、当時最も強大な国の一つであったエジプトに、多大な損害を与え、脱出するという出来事は、当時の世界にとっても、驚きを与えた事件でありました。そして、それを成し遂げられたのは、イスラエルではなく、測りがたいご計画と、恵みの契約によって彼らの神となられた主、ヤーウェなる神であり、その主が、常にイスラエルと共におられ、その民を導いておられました。
民数記の9章15~18節をお読みいたしますと(旧約198頁)。
【15 幕屋を建てた日に、雲は幕屋をおおった。すれはすなわち、あかしの幕屋であって、夕には、幕屋の上に、雲は火のように見えて、朝にまで及んだ。16 常にそうであって、昼は雲がそれをおおい、夜は火のように見えた。17 雲が幕屋を離れてのぼる時は、イスラエルの人々は、ただちに道に進んだ。また雲がとどまる所に、イスラエルの人々は宿営した。18 すなわち、イスラエルの人々は、主の命によって道に進み、主の命によって宿営し、幕屋の上に雲がとどまっている間は、宿営していた。】
このように、主は人々の目に見える形で、共におられ、イスラエルの民を率いて共に進んでおられました。主の歩みに合わせて人々は進み、また宿営していました。主がその大いなる御力を示され、民を救いだされたにもかかわらず、イスラエルは、食べ物がないと言ってつぶやき、マナを与えられると、今度は肉が食べたいとつぶやいたため、ウズラの群れと、同時に疫病も下されました。また、水がないと言っては、いずみが与えられ、また、水を出す岩を与えられ、彼らについて回りました。主のご計画を妨げ、行く手を妨げる民族との戦いでは、主ご自身がこれと戦われ、イスラエルに勝利に導いておられました。
エジプトを出て、約束の地カナンに向けて、不信仰ながら、主の忍耐と導きによってシナイ半島を進んでいたイスラエルは、目的地直前でまた罪を犯してしまいました。以前、見ましたように、カデシ・バルネアでの不従順に陥ります。そこまで、共におられる主のご存在を目で見、繰り返し主の力ある業を目の当たりにしたにもかかわらず、偵察に行ったカナンに住む、大きく、強い人々の前に恐れをなして、上がっていくようにとの命に従わず、嘆き、悪く言い、モーセらへの反乱を試みます。このことによって、主の怒りを買い、この後38年間の荒野での放浪を言い渡されます。さらに、ヨシュアとカレブを除く、他の同世代の人々は、カナンに入ることができない、と言われてしまいました。そこで、今度は、慌てて攻め上るのですが、主が共におられなかった為、負かされて追い払われてしまいました。
こうして見てまいりますと、イスラエルの民は、決して信仰の強い民ではありませんでした。いや、むしろ信仰の弱い、心配と不満に満ちた、不信仰の民だったと言えます。ただ、主の選びの民でありました。民族の力も、信仰も弱い民を憐れみ深い主がお選びになり、指導者を立て、忍耐強く導いてこられたのであります。かつてエバに告げ、アブラハムに約束された通り、その末に救い主を備え、地のもろもろの国民が祝福を受けるようにという契約を立て、それを実行されてこられた。イスラエルの歴史とは、ただ、主によるご計画と契約履行の歴史であった言うことであります。その約束、カナンの地において、神の民の国を立ち上げることができるように、主はイスラエルに訓練を課されます。それは、信仰の成長を図るための準備期間。訓練の放浪であったと言うことです。
この歴史は、第一コリントの10章1~12節で、まとめて説明されています。新約聖書267頁。
【1兄弟たちよ。このことを知らずにいてもらいたくない。わたしたちの先祖はみな雲の下におり、みな海を通り、
2みな雲の中、海の中で、モーセにつくバプテスマを受けた。3また、みな同じ霊の食物を食べ(マナ)、4みな同じ霊の飲み物を飲んだ。すなわち、彼らについてきた霊の岩から飲んだのであるが、この岩はキリストにほかならない。5しかし、彼らの中の大多数は、神のみこころにかなわなかったので、荒野で滅ぼされてしまった。6これらの出来事は、わたしたちに対する警告であって、彼らが悪をむさぼったように、わたしたちも悪をむさぼることのないためなのである。】
【7だから、彼らの中のある者たちのように、偶像礼拝者になってはならない。すなわち、「民は座して飲み食いをし、また立って踊り戯れた」と書いてある。8また、ある者たちがしたように、わたしたちは不品行をしてはならない。不品行をしたため倒された者が、一日に二万三千人もあった。(民25シッテムでのモアブの娘への不品行と偶像礼拝)9また、ある者たちがしたように、わたしたちは主を試みてはならない。主を試みた者は、へびに殺された。(民21マナや水への不満)10また、ある者たちがつぶやいたように、つぶやいてはならない。つぶやいた者は、「死の使」に滅ぼされた。(民16コラの反乱)11これらの事が彼らに起ったのは、他に対する警告としてであって、それが書かれたのは、世の終りに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のためである。12だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。】
イスラエルの荒野での放浪の記事は、偶像礼拝に代表される、主の民の不信仰を示して、新約時代に生きる私たちを戒めるためでる、と言われています。ここでは、青銅のヘビがキリストを指すように、水が湧き出る岩もキリストの予型であることを明かしていますが、第一コリントのこの部分のテーマは、明確に偶像礼拝への警告です。偶像礼拝とは、神ならぬものを神とすること。また、その中には、人が勝手に神を造ることと、神ご自身が啓示されたご自身の形を変えてしまうことも含まれています。霊なる神を、形ある被造物の中に押し込めてしまうことです。荘厳な会堂、ステンドグラス、立派なパイプオルガンや聖歌隊の美しい合唱などは、確かに魅力的ではありますが、それが救いをもたらすのではありません。
貫禄があって、知識があって気の利く優しい牧師でもありません。ただ、御言の福音。神の言葉を通して働かれる聖霊が与えて下さる、イエス・キリストへの信仰だけが、永遠の命を与え、魂を救い、現実の命をも生かされるのであります。
40年の放浪は、神の国への準備と、本当の信仰を成長させるための期間だと申し上げました。そして、じっさい、徐々にそれが進んでいきます。青銅のヘビは、そのことを表していました。民数記21章の4~6節では、
【4 民はホル山から進み、紅海の道をとおって、エドムの地を回ろうとしたが、民はその道に堪えがたくなった。5 民は神とモーセとにむかい、つぶやいて言った、「あなたがたはなぜわたしたちをエジプトから導き上って、荒野で死なせようとするのですか。ここには食物もなく、水もありません。わたしたちはこの粗悪な食物はいやになりました」。】
このように、民は主が示された道筋(※申命記2:2~5)に不満を覚えました。耐えきれず、逆らってつぶやいてしまいます。この繰り返される不信仰に対して、主が裁かれます。
【6 そこで主は、火のへびを民のうちに送られた。へびは民をかんだので、イスラエルの民のうち、多くのものが死んだ。】
不信仰には、主の報いがある。裁きがおよぶということが、前提であります。この世界の変わらない原則です。そこで、下された火のヘビによる死から救われるのは、薬ではなく、信仰であることが教えられました。空腹にマナを与えたり、渇きに水を出したり、敵を倒すといった、目に見える形ではなく、死から免れ、命を得ることができたのは、信仰でありました。主がモーセに言われた、
「火のへびを造って、それをさおの上に掛けなさい。すべてのかまれた者が仰いで、それを見るならば生きるであろう」。という、主の言葉を信じる信仰。その表れが御言に従って青銅のヘビを仰ぎ見るという行為に表れたのであります。私たちに、教えられているのは、信仰によって蛇の毒がいやされるということではなく、イエスキリストを救い主と信じることによって、罪という病から、永遠の死から命へと入れられると言うことであります。人は、信仰によって生きることが明らかにされました。
今の世も罪と不信仰に満ちていますが、滅び切らない程度に抑制されながら、主の民が集められている猶予期間であります。イエス様の再臨と御国の完成を待っている現在は、カナンに入る前の荒野を時代でもあります。ここで、重ねて覚えたいことは、キリストの型であった、この青銅のヘビでさえ、人は偶像としてしまうところに、罪の深さがあります。列王紀下の18章3~4節に、次のようにあります。
【3 ヒゼキヤはすべて先祖ダビデがおこなったように主の目にかなう事を行い、4 高き所を除き、石柱をこわし、アシラ像を切り倒し、モーセの造った青銅のへびを打ち砕いた。イスラエルの人々はこの時までそのへびに向かって香をたいていたからである。人々はこれをネホシタン(H:青銅)と呼んだ。】
救い主御子イエス様が来られ、教えられて尚、人はイエス様すら偶像としてしまう方向へと進んでしまうのです。正しい信仰とは、唯一の霊、見えない霊なる神様を信じること。すなわち、神の言葉である聖書のままに、聖書のみに記された神様、救い主を信じるところにあります。どうか、主が御霊を遣わしてくださり、命に至る信仰の道を歩み続けることができますよう、一層のお導きを祈ります。
※<申命記2:2-5>
【2 主はわたしに言われた、3 『あなたがたは既に久しくこの山を行きめぐっているが、身をめぐらして北に進みなさい。4 おまえはまた民に命じて言え、「あなたがたは、エサウの子孫、すなわちセイルに住んでいるあなたがたの兄弟の領内を通ろうとしている。彼らはあなたがたを恐れるであろう。それゆえ、あなたがたはみずから深く慎み、5 彼らと争ってはならない。彼らの地は、足の裏で踏むほどでも、あなたがたに与えないであろう。わたしがセイル山をエサウに与えて、領地とさせたからである。】
<2:9>【9 その時、主はわたしに言われた、『モアブを敵視してはならない。またそれと争い戦ってはならない。彼らの地は、領地としてあなたに与えない。ロトの子孫にアルを与えて、領地とさせたからである。】