耐え忍びなさい
<ヤコブの手紙 5章>
7:だから、兄弟たちよ。主の来臨の時まで耐え忍びなさい。見よ、農夫は、地の尊い実りを、前の雨と後の雨とがあるまで、耐え忍んで待っている。
8:あなたがたも、主の来臨が近づいているから、耐え忍びなさい。心を強くしていなさい。
9:兄弟たちよ。互に不平を言い合ってはならない。さばきを受けるかも知れないから。見よ、さばき主が、すでに戸口に立っておられる。
10:兄弟たちよ。苦しみを耐え忍ぶことについては、主の御名によって語った預言者たちを模範にするがよい。
11:忍び抜いた人たちはさいわいであると、わたしたちは思う。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いている。また、主が彼になさったことの結末を見て、主がいかに慈愛とあわれみとに富んだかたであるかが、わかるはずである。ヤコブの手紙 5章 7節から11節
【8:あなたがたも、主の来臨が近づいているから、耐え忍びなさい。心を強くしていなさい。】
ヤコブの手紙5章8節の御言です。「耐え忍びなさい」「心を強くしていなさい」という、ヤコブの奨励がなされています。今日お読みいただきました、7節から11節。ここでの専らのテーマは、「耐え忍べ」ということであると言えると思います。ここの7節から10節の間で、全く同じ「耐え忍びなさい」
「耐え忍ぶ」という言葉が4回出てきます。それは全部、実は同じ単語です。ギリシャ語で「μακροθμια(マクロスミァ)」という言葉です。「μακροθμια」という言葉の、人称とか品詞の違いはありますけれど、同じ言葉が4回使われます。
7節では「来臨の時まで耐え忍びなさい」。さらに「前の雨と後の雨があるまで耐え忍んで」というように2回。8節でも今お読みしたように「耐え忍びなさい」。それと10では、「兄弟たちよ。苦しみを耐え忍ぶ」と、そのように書かれています。
こうして4回「耐え忍べ」と言われているのですが、加えて最後の11節で、ヨブの譬えを出しているところですが、ここで「忍び抜く」ということと、ヨブの「忍耐」ということが言われています。ここの「忍び抜く」という言葉と、ヨブの「忍耐」という言葉は、この二つは同じ単語で、動詞と名詞の違いがあるだけです。今まで行ってきた「耐え忍ぶ(μακροθμια)」とは、また違うのですが、ここは「υπομενω」というギリシャ語が使われています。「忍び抜く」と「忍耐」は同じ単語です。意味としては「耐える」ということですが、これも含めると、わずか5節の間に6回「忍耐する」「耐える」という意味の言葉が使われていることになります。
それが、実は最初に4回出てきた「耐え忍ぶ」という言葉と、最後の11節に出て来る「忍耐」という言葉は、よく似ていて、他のところでは区別せずに使われていますけれども、元々の単語の意味としては微妙な違いがあります。ここでは、あえて明確に違いを意識してヤコブは使っているようです。その違いが分かってくるとことがありますので、留意しながら御言に聞いて参りたいと思います
まず、7節をお読みいたしますと、
【7:だから、兄弟たちよ。主の来臨の時まで耐え忍びなさい。見よ、農夫は、地の尊い実りを、前の雨と後の雨とがあるまで、耐え忍んで待っている。】
ここで「だから」という言葉が最初に入っています。そしてまた「兄弟たちよ」と呼び掛けているわけです。ヤコブが「兄弟たちよ」と呼び掛ける時は、きついことを言う時か、新しい教えにはいる時、と言うのがこの手紙のパターンになっています。ここでは、後者の、新しいテーマに切り替わっていくことを示しています。ひとつ、その前に「だから」とありますから、これは「そうだから」「ということで」といった繋ぎの接続詞ですから、7節に入るまでの1節から6節に書いてきたことを引き継いで、それを基に、これから語ると言うことが分かるわけです。
では、1節から6節は何だったか、と言いますと、先週聞いてまいりましたように、「金持ち」。つまり富んでいる人、裕福な人について。ただ、これはこの世的に富んでいる、豊かだというだけではなく、この世のさまざまな富。それはお金かも知れないし、財産かも知れない。あるいは権力と言ったことも含まれると考えられます。財力から出て来る権力。そういったものを、自分のために用いて、与えて頂いた賜物を活かすのではなくて、その豊かさに支配され、専ら自分のためのそれを使って、弱いものを虐げる。旧約聖書では、よく所謂「悪人」と呼ばれる人達の姿を指しています。信徒たちを、弱い者たちを虐げて、搾取して、そしてこの世で栄華を誇っている人たち。有力者たち。ただ、そういう人たちに対して、主の裁きは必ず訪れるのだと、言うことを預言者たちは語っていました。
このように、非常に旧約預言的に、主がその悪人たちを、必ずその悪に応じて報われる。そのことを一般的な話として語っていて、その裁きが実際あるんだ、ということから、悪い人たちに、力をもって迫害する者たちに、裁きがあると言うことを伝えて、そして「兄弟たちよ」と語り掛けていきます。「だから」来臨の時まで「耐え忍びなさい」。そういうことを教えているわけであります。そして、何時まで耐え忍ぶか。それは書かれ得た通り「主の来臨の時まで」。ちゃんと時、期限を示しているわけです。
延々ときつい坂道を登っていて、その先、頂上が分からなかったら、どこまで登れば良いのか、と思いますが、ここが何キロ、頂上まで何メーターと書いてくれていて、それがだんだん短くなってくると、疲れていても元気が出て来るのと一緒です。確かに、主が来臨される時というのは、前にもお話しました通り、誰にも教えられていないことですから、分からないのですけれども・・いつ来るか分からない、そして必ず来るのだから、ということが分かっている。頂上があると言うことが分かっているので、そこまで耐え忍びましょう、ということを教えているわけです。ちゃんと確かな目標があって、それが必ず来るから。ただ、いつかは分からないけれども、必ずあるから、それまで耐え忍びましょう。と、到着地点がちゃんとあることを示して、ヤコブは教えているわけです。
その譬えとして、農夫の忍耐のことを話しています。
【見よ、農夫は、地の尊い実りを、前の雨と後の雨とがあるまで、耐え忍んで待っている。】
この譬えは、現代日本では非常に分かりにくい表現になっています。原文ではここに「雨」という言葉ありません。<「前のもの」と「後のもの」、その間を待っている>というように書かれています。これは、当時のユダヤ人たちはすぐ理解できた表現ですが、私たちには分からないので「雨」という単語を入れて説明しています。この当時のユダヤ地方の季節というのは、春と秋に2回、雨季があって、その時に一年中の3/4位の雨が集中して降っており、そのタイミングが丁度、収穫や種まきの前か後かということで、得るものが変わってくると言う、非常に大切な季節だったようです。その雨を、農夫たちはみな待ち望んでいました。「前の雨」は秋に降る雨で、「後の雨」は春に降る雨のことだそうです。
ここを読んでみますと、わざと季節の雨とか、めぐみのと言うのではなくて、「前と後」と表現していると言うことは、もしかしたらヤコブの中には、「前の雨が来たでしょう。<だから>後の雨も必ず来るのだ」。イエス様は既に来られた。次に、必ずまた来られると言うお約束をして下さっているのです。だから、「雨と雨の間を待っているだけで、いいんだよ」ということも、ここではそういう受け止め方もしていたのではないか、とも思えます。これは、そう書いているわけではないのですけれども、あえて「前」と「後」を並べて書いていると言うことは、そのようなイメージをもって「私たちは雨と雨の間を、今歩んでいるのだ。最初にイエス様が来られて、全ての罪を贖って私たちを恵みに入れて下さった。そして、次には必ず、次の春の雨が。つまり再臨の時がやって来るので、そこまで待てばいいのだよ。」そういうことを心に抱いて、そこに本当に希望というもの。これを持つことができるのであります。だから耐え忍ぶことができる。
人の忍耐というものは、本当に人間は弱い者ですから、いつ終わるか分からない、どこまで続ければいいのだろう、この困難は軽くなるのか。分からない。見えない、分からないと、本当にそれは苦しい忍耐になります。それで、もたないのですけれども、あと何メーター泳げばよいとか、後どれだけ歩けばよいとか、目標があって、それが確実であれば、そこで本当に力が与えられるものです。ですから、駅伝などを見ても、選手がフラフラになりながら、そこに見えているからそこまで何とか辿り着こうと、力を振り絞って襷が繋がれるシーンがあります。
そのように、私たちにも、確実に、間違いなくやってくるイエス様の再臨の徳があるのが分かっています。そしてそれが、私たち自身のこの世の生がある間かどうかは分からないですけれども、やがて召される時には必ず、完全に聖くされて、主の御許へちゃんと迎え入れて下さるという、お約束を頂いていますから。それは私たちがどうする、こうするでは無くて、神様がそうして下さると言う、確実なお約束を頂いているから、私たちは様々な困難や不足や、色々なことに耐え忍ぶことが、その力が与えられると言うことであります。そのことを、ここで農夫の譬えをもってヤコブは教えてくれていると思います。
8節のところでも、もう一度繰り返しています。「あなたがたも、主の来臨が近づいているから」。今度は「近づいている」。必ずあるんだ、しかもそれは近づいているんだ。だから、耐えましょうと。そしてさらに「心を強くしていなさい」。心を強くする。「強くする」というのは「固く保つ」という意味の言葉です。私たちは弱いです。弱いですけれども、固く保つ。固くすると言うおしえは、地盤の固いところに建物を建てると言うのと同じ譬えの時に使われる言葉です。私たちを強くするにはどうしたらいいか。固く立つにはどうしたらいいか。土台を固くする必要がある。岩盤の上に建てる必要がある。岩盤は何か、それは福音であり、御言です。御言によって与えられた信仰の上に立つ。イエス・キリストの福音が、最も固い足場であって、それを土台にして、初めて私たちは固く立って、心を強くすることができるわけであります。
主が来られるのだから、間もなく来られるのだから、しっかりその主に信頼して、御言に立っていたら、耐え忍ぶことができるということを、ここでは繰り返しているわけであります。再臨ということと、それからそこまで耐え忍ぶという、私たちクリスチャンが求められていることですけれども、それは逆にクリスチャンだからこそできる生き方であり、幸いであります。
ここで9節に入ってまいります。
【9:兄弟たちよ。互に不平を言い合ってはならない。さばきを受けるかも知れないから。見よ、さばき主が、すでに戸口に立っておられる。】
さらに、再臨が近いと言うことをヤコブは教えています。「再臨の時は必ず来るんだ、そこまで耐えなさい。」イエス様は来てくださいました。秋の雨があったら、必ず春の雨は来るのだから、その間待てばいいんだ。8節ではそれが、だんだん近づいている、だからイエス様にしっかり立てと。
しかも、今度は「さばき主が、すでに戸口に立っておられる」。そこまで裁きの時は来ている。だから、耐えろ、ということなのです。ここで言われるのは「互いに不平を言い合ってはならない」、文句を言い合ってはならない、さらに言えば罵り合ってはいけない。つまりは、裁きあってはならん、ということであります。ここは、同じような表現で教えられているのが、前にも聞きましたが、マタイによる福音書の7章を見てみたいと思います。マタイによる福音書の7章1節からお読みいたします。
【人をさばくな。自分がさばかれないためである。あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。】
実は、ヤコブの手紙5章9節の、「さばきを受けるかも知れないから」という文章は、字義通り訳すと「さばきを受けないために」という訳になります。今はもう新改訳や英訳のNIVなどもそうなっていたと思います。「さばきを受けないために」。文句を言い合ってはならない、罵り合ってはいかん。これは、今お読みしたマタイ7章の「さばくな、自分がさばかれないために」と全く同じことが言われています。実はここから、裁いてはならないと言うことを、直前の4章の後半でも言っていましたけれども、裁きを受けないために裁かない、つまり裁かれる方はただお一人だ。それは、主なる神様だ、ということを4章の12節で言っていました。
その方が、ここでは「見よ、さばき主が戸口に立っておられる。」4章では文脈から、裁かれる方はただお一人で、そのお一人は唯一の真の主なる神様なのだ、ということを言っていました。しかし、ここではその裁き主は、再臨の終末の裁きに来られる方で、イエス様だと言うことが分かると思います。まことの神様で、その神様であられるイエス様が、裁く権威を与えられて、やがて再臨の日にやって来られる。その方がすでに、「戸口に立っておられる」。
この9節で印象的なのは、4章12節で「ただひとり」と言っていたとおり、ここでの「さばき主」は単数です。ただお一人。ところが、立っておられる「戸口」というのは、複数なのです。ただお一人の裁き主が、複数の戸口、入り口の扉の前に立っておられる。どういうことでしょうか。全ての人の扉の前に立っておられるのです。世界を一つの家と見なしてもいいかも知れないです。そうすると、その家の全ての出入り口の前に立っておられる。誰も、このさばき主から逃げることはできないのです。この方が、必ず全ての人のところに訪れる、ということです。諸々の、複数の戸口。一人の裁き主が、複数の戸口に立っておられる。だから、誰もさばきを受けないように。不平を言うのではなくて、さばき合うのではなくて、耐え忍びましょう。
この「耐え忍ぶ」という言葉は、先ほど11節にある「忍耐」とか「忍び抜く」という言葉とは、少し違うと申し上げました。その違いは、11節にあるヨブの忍耐とか、忍び抜くと言ったことは、実は1章3節で語られている「・・信仰が試されることによって、忍耐が生み出される」というところの「忍耐」と同じ単語です。同じく1章12節の「試練を耐え忍ぶ人は、さいわいである」。こちらも同じ言葉です。12節の「耐え忍ぶ」と3節の「忍耐は」5章11節のヨブの「忍耐」と同じ言葉です。
5章7~10節と、どう違うかというと、この忍耐は「試練」、襲い来る、外からやって来る様々な苦難であったり、迫害であったりという、状況的な苦しい試練があって、それに対して耐え忍ぶ、という意味です。この言葉自体の別の意味は「とどまる」とか「もちこたえる」。その場で、ぐっと踏みとどまる、」と言ったような意味です。さらに、待望すると言う意味もあります。それが過ぎ去るのを、取り去られるのを、待ち望むと言う意味も含まれています。ですから、試練に立ちする抵抗力。それがどのようにもたらされるかというと、ここに譬えられたヨブのように。
ヨブが、あのような本当にすさまじい試練と、苦しみにあって、その中で耐え抜くことができたのは、それは正に御言に立っていたから。御言に聞いて。そして、確かにヨブは、最初はよかったですけれども、段々文句を言い出して、神様に対して、一所懸命口論するような、チャレンジをしていくのですけれど。それでも信仰自体は無くなっていないです。自分の与えられた信仰に基づいて、そこから一所懸命に語りかけて、神様に、本当に魂の交わりではないですけれども、問いかけと呼び掛けをしていました。友人たちが、慰めたり、諫めようとした時もちゃんと御言に立って、信仰によって答えて行っています。信仰は無くなっていなかったです。信仰に立って、その信仰の苦しみの中で悶えていた。それを見て、主がご自身の口をもってお答えになった。そして、その足りないところを補って下さって、さらに豊かに彼を癒し、その後、様々な回復をして下さった、という事実。それを思い出しましょう、いうようなことを言っています。
主は必ず報いて下さる方であって、必ず裁いて下さる方である。信仰の立っていることでその裁きを逃れ、善き栄光と賜物を主から賜ることができるのだ、その姿を私たちは御言によって教えられているではないか。もう一度思い起こそう、ということを教えているわけであります。
ここ11節では「忍び抜いた人はさいわいである」。この幸いは以前にも触れましたように、語源は「μακαριος」で、イエス様が山上の説教で「さいわいである」と言われた言葉と同じです。幸いだ、と言ってしまうと、幸せだ、幸福だ、と言う印象が強いです。確かに英語でも「Happy」と説明したりしていて、確かにその通りなのですが、もう一つの意味は「祝福される」という意味があります。幸い、幸せというのは、私たちの主観なのです。そのように感じる、主観なのですが、それだけでは無くて、耐え抜いた人は「祝福」される。与えられて外からくる、客観的なことなのです。客観的な事実です。自分たちがただそのように感じるだけではなくて、実際に客観的に、祝福が与えられる。受けることができるのだよ、主が祝福して下さるのだ、ということも教えらえているのであります。
ここまで、これが「耐える」ということ。試練に対して固く立つということを言っているわけですが、その土台は御言であって、イエス様だと言うことが教えられてまいりました。前半語られてきた「耐え忍ぶ」という言葉は、少しイメージが違って、「対人的な事柄」と言われています。どういうことかと言いますと、ことらの「耐え忍ぶ」ということ中には、別の訳では「寛容に」という言葉があてられています。寛容でありまさいということ。ですから、「さばくな」ということがずっと教えられてきて、そして「耐え忍びなさい」=「寛容でありなさい」、心を、焦ることなく、時間をかけて、じっくりと耐えなさい、待っていなさい。そのような意味合いを含んでいます。
人と人との関係というのは、なかなか難しくて、当然思うようにはならないですし、自分を迫害したり、圧迫してくるような人々もいますけれども、それを裁くのではなくて、主が報いて下さるから、それまで寛容に忍びなさい。そのような教えなのです。対人関係において、交わりにおいても、非血に対して寛容であれ。それは、一つは「さばくな」ということと繋がってくると思います。前にも申し上げましたように、私たちは麦と毒麦を見分けることができない存在です。何より、クリスチャンを激しく迫害していたサウロが、パウロになったわけですから、いつどこで、私たちに敵対し、迫害する人達が救いに入れられるかは、全く分からないのです。教会の中にあっても、あるいは世の中や、どこにあっても、やはり麦と毒麦を見分けることは出来なくて、私たちには出来ないと思うようなこと。主から最も遠いと思うような人を、主の下に召してその民とされるのが、主の御業でありますから、そのことを思い、やがて最後の最後の、主の再臨の時が来るまで、私たちは、この種の御業を信じて、常に福音、御言を届けると言うことに、努めていく。そのことが求められているわけであります。
この求められる事、常に私たちは求められる事をできない、ということが大前提なのです。聖書の教えは、ああすれば良い、こうしたらダメとか、色々なことを教えてくれます。それは真理であって、その通りなのです。ただ、私たちは常にそれに、その御心にかなうことができないのだ、と言うことをいつも思い知らされますし、だから、できないからイエス様が来てくださって、赦されているのだし、出来ないから、今も常に日々赦されて、日々執り成していて下さる。だから、このイエス様に信頼して、少しでも果たしていこう、近づいていこうと言う願いの下に、御霊が力を与えて、寛容を与えて、やがて召される日.
あるいはやがて来る再臨の日。この確実なことに信頼して、希望を置いて耐え忍んでいくことができると言うわけであります。
困難の中にある、この世の歩みでありますけれども、私たちにはその終わりも知らされていますし、そこに備えられた栄光と恵みも約束されています。全てキリストにあって備えられたこの恵みを、私たちが心から失うことなく、その恵みに向かって、一歩ずつ、少しずつその歩みを進めることができますように、御霊の一層のお導きを祈りたいと思います。