異端への警告
(1節)イエス・キリストの僕またヤコブの兄弟であるユダから、父なる神に愛され、イエス・キリストに守られている召された人々へ。
(2節)あわれみと平安と愛とが、あなたがたに豊かに加わるように。
(3節)愛する者たちよ。わたしたちが共にあずかっている救いについて、あなたがたに書きおくりたいと心から願っていたので、聖徒たちによって、ひとたび伝えられた信仰のために戦うことを勧めるように、手紙をおくる必要を感じるに至った。(4節)そのわけは、不信仰な人々がしのび込んできて、わたしたちの神の恵みを放縦な生活に変え、唯一の君であり、わたしたちの主であるイエス・キリストを否定しているからである。彼らは、このようなさばきを受けることに、昔から予告されているのである。
(5節)あなたがたはみな、じゅうぶんに知っていることではあるが、主が民をエジプトの地から救い出して後、不信仰な者を滅ぼされたことを、思い起してもらいたい。ユダの手紙 1章 1節から5節
「不信仰な人々がしのび込んできて、わたしたちの神の恵みを放縦な生活に変え、唯一の君であり、わたしたちの主であるイエス・キリストを否定しているからである。彼らは、このようなさばきを受けることに、昔から予告されているのである。」
ユダの手紙。1章4節の、み言葉でございます。今朝から、ご一緒にユダの手紙の、み言葉に聞いてまいりたいと思います。この4節は、3節の
「愛する者たちよ。わたしたちが共にあずかっている救いについて、あなたがたに書きおくりたいと心から願っていたので、聖徒たちによって、ひとたび伝えられた信仰のために戦うことを勧めるように、手紙をおくる必要を感じるに至った。」 という、ユダが手紙を書き送る必要を感じた、その理由として述べられています。ユダが感じた必要性は、「信仰の戦い」を勧めることだったと、伝えています。
もともと、ユダは「私たちが共にあずかっている救い」について。つまり、福音について、教理的な手紙を送ろうと願い、熱心に取り組んでいました。しかし、送ろうとしていた手紙の内容を、急遽書き換える必要が生じた、ということになります。ある意味、緊急に書かれた手紙ということができます。
口語訳のように、3節で「心から願っていたので・・」とすると、書き送りたいという願いが、この手紙を送った理由のようにも読めますが、正確には「願っていたが・・」。あるいは「願っていたところ」とした方が分かり易いです。ユダが救いの恵みについて書こうと思っていたところ、それよりも先に、とり急いで「信仰の戦い」について書き送る必要に迫られた、ということです。
では、その緊急の必要が生じた出来事は何か。それは、4節にある通り「不信仰な人々が忍び込んでき」た。つまり、教会への異端の侵入であります。
それでは、このユダの手紙自体について、少し学んでまいりたいと思います。まず、1節から2節をお読みいたします。
「(1節)イエス・キリストの僕(しもべ)またヤコブの兄弟であるユダから、父なる神に愛され、イエス・キリストに守られている召された人々へ。(2節)あわれみと平安と愛とが、あなたがたに豊かに加わるように。」
多くの書簡の書き出しと同じように、自己紹介とあいさつから始まっています。ここで、この手紙を書いたのが「ユダ」であること。そしてユダは「イエス・キリストのしもべ」であり、かつ「ヤコブの弟」であることが紹介されています。ユダという名前は一般的な名前で、聖書に何人もでてきますし、信徒はみんなキリストのしもべになります。ヤコブも同様に、ユダヤの国、イスラエルの名を主から与えられた、父祖の名前ですから、一般的で、大勢いる名前です。ただし、新約聖書において、単に「ヤコブ」とだけ記されている時は、原則的に「イエス様の弟のヤコブ」を指しています。当時、エルサレム教会の柱で、誰もが知る人物だったからです。
そこで、この手紙を書いたのは、イエス様の弟ヤコブの、更に弟のユダということになります。つまり、イエス様の弟ユダが書いた手紙です。「マルコによる福音書」6章3節から6節を見て見ます。(新約59頁)
「(3節)この人は大工ではないか。マリヤのむすこで、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。またその姉妹たちも、ここにわたしたちと一緒にいるではないか」。こうして彼らはイエスにつまずいた。(4節)イエスは言われた、「預言者は、自分の郷里、親族、家以外では、どこででも敬われないことはない」。(5節)そして、そこでは力あるわざを一つもすることができず、ただ少数の病人に手をおいていやされただけであった。(6節)そして、彼らの不信仰を驚き怪しまれた。」
ここに、イエス様の兄弟として記されている、ヤコブ、ヨセ(これはヨセフのこと)、ユダ、シモン。このユダのことです。イエス様の弟ユダは、ヤコブと同様に、当初はイエス様への信仰を持っていませんでした(ヨハネ福音書7章5節参照)。しかし、十字架と復活の後、御霊によって、兄を救い主・キリストと信じる信仰をあたえられ、教会での務めに召されていったのであります。
このユダが、自らを「イエス・キリストの兄弟」ではなく、「イエス・キリストのしもべ」と呼んでいます。ユダの信仰とへりくだりが表されているようです。兄ヤコブは、エルサレム教会の長老として、重く用いられ、ペテロやヨハネらと一緒に、教会の柱として仕えていましたが、弟ユダの働きは。ほとんど伺い知ることができません。その意味でも、ヤコブの弟と名乗ったことも考えられます。それでも、やはり兄たちと同じく、堅く信仰に立った、中心的なメンバーであったことは確かなようです。そのユダが、教会の危機を察知して、緊急の必要を感じて書いたのが、この手紙であります。
次に、この手紙が、いつどこで、誰に対して書かれたのか、という点になります。ユダの手紙は、最初と最後の挨拶を除いた、教えの内容が「ペテロの第二の手紙」と相当部分において、似通っていることが分かります。ただ、注目すべき違いは、教会に入り込む異端や偽教師に対して、第二ペテロでは、2章一節で「偽教師があらわれるであろう」と未来形で書かれているのに対し、ユダの手紙では、4節のように、もうすでに入り込んでいることを前提として書かれています。また、第二ペテロに比べて、ユダの手紙は、より簡潔にまとめられています。三分法的に、三種類の表現をとり、三つの例を挙げ、信徒の恵みと、背教者の姿を対比的に描いています。
以上の事から、ユダは、教会の喫緊の問題に対応するために、丁度同じ問題を取り扱った、ペテロの手紙を用いたと考えるのが自然だと考えられます。従いまして、ペテロはローマで殉教する直前に第二の手紙を書いていますから、紀元60年代半ば頃。ユダの手紙は、その数年後、というのが妥当なところです。早ければ66年ころから70年過ぎ、くらいまでだと考えられています。
書かれた場所は、不明です。ただ、兄ヤコブと同じく、エルサレム教会で、ユダヤ人を中心に宣教していたところから、パレスチナ地方で書かれたのではないかと推測されています。また、書き送った相手についても、具体的な教会名や個人はでてきません。ただ、旧約聖書や、旧約儀典と言われる、ユダヤの文書を引用しているところから、ユダヤ人クリスチャンたちが主な相手。さらに3節で、「わたしたちが共にあずかっている救い」と書いていますが、「共にあずかる」という表現は、異邦人に対して用いられることの多い言い回しですから、ユダヤ人中心ですが、そこには異邦人の信徒も混じっていた、ということが考えられます。
1世紀も後半で、教会自体もどんどん増えていった時代ですし、交易も盛んでしたから、様々な教会、信徒も意識して書かれたと考えるのが妥当だと思います。
先に申し上げたように、ユダは、当初に書こうとしていた手紙の内容を変えてまで、この手紙を書き送りました。それほど、急を要した。教会の危機を感じていました。それほど、異端が教会内に入り込み、混乱が見て取れたということだと思います。この時、入り込んだ異端は、初期のグノーシス主義だと言われています。グノーシス主義が、本当に教会を混乱させ、大問題になるのは、2世紀になってからですが、この時点ですでにその兆しがあったようです。
グノーシス主義というのは、修養会でも触れましたが、おおまかに言いますと、いわゆる宗教混交主義で、当時あったさまざまな宗教や哲学、世界観の中に、旧約聖書やキリスト教の教えを取り込んで、人間が都合よく作り上げた、真の知識によって救われる、といった考えです。聖書を神の言葉として、そのまま受け入れるのではなく、新たな材料として利用する。内容を切り刻んで、勝手な解釈を加えて、全く違う理解をしていました。これは、初期教会の異端ではありますが、全く現代の自由主義や、科学主義、人間中心主義による聖書のとらえ方と通じるものがあります。ごく最近の新興宗教なども、同じような傾向が認められます。そして、このような異端に加わっていた人たちは、学識があったり、高い地位や世的な力をもっていたため、影響力が強かったようです。
ユダは、教会に誤った教えが入り込むのを感知して、教会に緊急の警告の手紙を書き送りました。教会の危機に、福音信仰を固く持って、これと戦うよう促す、励ましの手紙です。み言葉に戻りましょう。1節、2節。
「 (1節)イエス・キリストの僕(しもべ)またヤコブの兄弟であるユダから、父なる神に愛され、イエス・キリストに守られている召された人々へ。(2節)あわれみと平安と愛とが、あなたがたに豊かに加わるように。」
あいさつ文ですが、危機と、警告を伝えるにあたって、ユダはその中で、まずクリスチャンの恵みの再確認を行います。この辺りはペテロの手紙や、パウロのコリント人への手紙と同じです。ただのあいさつではなく、祝福と励ましが含まれています。
あなた方は、「父なる神に愛されている」。「イエスキリストに守られている」。そして「召されている」。あなた方は、そのような恵みの中に置かれた存在だと断言しているわけです。そして、祝福を付け加えます。「あわれみ」が豊かに加わるように。「平安」が豊かに加わるように。「愛」が豊かに加わるように。「与えられますように」では無いのです。すでに与えられている「あわれみ」と「平安」と「愛」が、ますます豊かに加えられますように、との祝福です。
これは、私たちがいつも覚えなければならないことであります。危機や試練に瀕したとき。迷いや混乱の中に置かれた時。孤独や不安を覚える時。思い起こすべきこと、立ち帰るところを再確認する、その大切さを教えています。私たちは、神様に愛されて、イエス様に守られている、ということです。マタイによる福音書の大宣教命令で、イエス様は世の終わりまで共いて下さると約束されました。その上で、弟子たちを世界に送り出しました。同じように、私たちも、神の愛と、イエス・キリストの守りの中で、召されて、世に遣わされているのであります。
パウロは、ローマ人への手紙8章で、イエス・キリストにおける神の愛から、私たちを引き離すことができるものは存在しない、と断言していました。私たちは、このみ言葉を常に心に刻む必要があります。特に、信仰の戦いに臨まなければならない時。それを乗り越える力は、私たちの力ではなく、私たちに注がれる、主なる神様の御力が果たして下さるという、全き信頼。全能の神が見方であられるという、平安であります。
先程少し触れましたが、ユダは、事柄や概念を三つに分けたり、三つ重ねることを、この短い手紙の中で繰り返しています。三分法とか三段論法というように、そうして効果的に理解を促すことは、レトリックとしてもあります。ただ、ユダはやはり、父・御子・御霊の三位一体の神様、ということを、明らかに悟っていました。三位一体ということが、教会の中で、教理的に整理され、確認されるのは、3世紀以降、5世紀までかかるのですが、それ以前の使徒たち。パウロやペテロは、確かに理解していました。彼らの手紙を読みますと明らかです。エペソ1章は典型的でした。それは、聖霊の御業ですが、ユダもやはり同じだったことが分かります。このことは、手紙の後半で、よりはっきりと、明らかにされています。
さて、信徒たちが、神さまの愛と、主の守りと、召しを再確認できるように書き始めたユダは、信仰のための戦いを促します。3節から5節。
「(3節)愛する者たちよ。わたしたちが共にあずかっている救について、あなたがたに書きおくりたいと心から願っていたので、聖徒たちによって、ひとたび伝えられた信仰のために戦うことを勧めるように、手紙をおくる必要を感じるに至った。(4節)そのわけは、不信仰な人々がしのび込んできて、わたしたちの神の恵みを放縦な生活に変え、唯一の 君であり、わたしたちの主であるイエス・キリストを否定しているからである。彼らは、このようなさばきを受けることに、昔から予告されているのである。(5節)あなたがたはみな、じゅうぶんに知っていることではあるが、主が民をエジプトの地から救い出して後、不信仰な者を滅ぼされたことを、思い起してもらいたい。」
守るべき信仰は「聖徒たちによってひとたび伝えられた」信仰でした。使徒たちや伝道者たちのべ伝えてきた、福音。それは、イエス様を神の御子キリスト、救い主と信じる信仰であります。そして、そこにしか救いは無いということ。教会に忍び込んできた、異端。偽教師たちは、それを否定し、主(しゅ)にある信仰生活を脅かすものでした。その内容が教えられます。
彼らはまず、「不信仰であること」。そして「放縦な生活へと誘うこと」。さらに「イエス・キリストを否定する」、そのような存在であったということであります。聖書でご自身を明かしておられる、神を神としないこと。聖書の勝手な解釈や、異教の習慣、人間的な欲望から、好き勝手な放縦な生活をよしとすること。何より、イエス・キリストを否定する。旧約聖書が予言し、新約聖書があかしているメシヤ。私たちを救うために、「人」となって下さった、まことの神であるイエス・キリストを、その通り受け止めることなく、違った存在と見なす、そのよう異端の姿です。
イエス・キリストを、み使いだと言ったり、人間の預言者の一人だと言ったり、御霊によらず、人間の思いで、勝手に様々な形で、イエス様を理解しようとする姿勢が、神様に背く誤りへと人を誘うのであります。そしてユダは、このような不信仰。神様の言葉への背きに対しては、裁きが予告されており、実際その通りに滅びに入れられたではないか、ということを明らかにしたのであります。新しい、耳触りの良い教え、罪人の欲に適った教えが、誘ってきます。私たちは、都度、み言葉にきき、祈りつつ、最初の福音に立ち帰り、守っていて下さるイエス様により頼んで、信仰の戦いへと臨むのであります。